東大EMPとは
設立の背景
東京大学は、長年にわたって蓄積した知的資産をもとに先端的課題設定と解決能力を持った数少ない機関の一つとして世界的に広く認知されてきた。この実績を最大限に活用し、これからの時代が求めている深みと広がりのある全人格的能力を持った人材を創り出すことに東京大学として改めて挑戦し、その責任を果たす。
今日の世界は、必然的に不安定で予見不可能な多極構造をしている。かつて慣れ親しんでいた「OECD諸国対その他の発展途上国」という単純な図式が崩壊して久しい。人口の規模と成長力のある中国・インドに加えて、3億人を超えて今なお人口が増え続けているアメリカや、イギリスの離脱による新たな課題を抱えながらも5億人規模の経済圏を維持するEU、人口と富が増加しつつも政治的には安定しないアフリカや南アメリカ等の地域経済圏、中東を中心としつつも世界に広がるイスラーム文化圏、加えて、ロシアを中心とした旧社会主義の勢力圏など、それぞれが独自の価値体系を持っている。このように多極化した地域が格差社会、政治的対決などの課題を抱えながらそれぞれの価値観を主張する事で、世界秩序の将来の見通しは極めて不透明になっている。
この多極構造の中で、1億人強程度の人口規模でしかない日本経済圏では、他の巨大経済圏と比べてあらゆる意味で中途半端である時代がすでに始まっている。もはや「世界第二の経済大国」も過去のものとなった。どこよりも暮らしやすいと定評のある日本国内にこのまま安閑としていることは、世界の中での日本の役割と存在感の恒常的な低下を意味する。
加えて、東日本大震災という未曾有の状況に日本は直面することになった。9年以上経った現在でも、被災地の困難と苦労はいまだ続いている。原子力発電所の事故の解決には長期の努力が必要であり、その展開は世界的にも影響が大きい。科学が問うことはできるが、科学のみでは答えられない「トランス・サイエンス」的課題に日本がどう立ち向かうのかも問われている。
一方で、グローバリズムの本質ともいうべき世界の「相互連鎖」がかつてないペースで進行している。2008年に起きたアメリカ発のリーマン・ショックは象徴的な例のひとつであるが、その後も世界はさらに複雑化し、その変化速度も以前と比べて飛躍的に大きくなっている。国境を簡単に越えて急速に拡大していった新型コロナウイルスのあり方もまたグローバリズムの結果と言えるが、その先行きの不透明さによって世界の主要地域に連鎖的な影響を与えていることは、ここで言う「相互連鎖」の典型的な例である。
それと同時に、もう一つの「相互連鎖」も進行中である。すなわち、政治・経済・技術・文化・科学等、社会のあらゆる分野で伝統的な縦割り状況が崩壊し、これまでに確立した区分の中に留まったままの幅の狭い発想では、的確に課題を設定しそれを解決することが、事実上不可能になってきている。このような二つの「相互連鎖」の進行によって、我々が直面する課題の多様性と複雑度が飛躍的に高まっている。
そのような地域や分野の「相互連鎖」のスピードを加速させているのが、ISDT(インターネット、センサー、そしてデジタル・テクノロジー)の存在である。IoT(モノのインターネット)やブロック・チェーンなどはその新たな活用例である。これらの技術はすでに、既存の制約や規制、枠組み、その背景にある主義や思想を超えてグローバルなコモンズを作り出し始めている。その展開は多元的であり、その将来を誰も読み解くことはできないが、社会の大きなパラダイムの変革につながることは間違いない。
このような状況は、企業、中央政府及び地方自治体、公的機関、非営利団体等のすべての組織にとってこれまでに経験したことのない困難な状況であると同時に、新たな発展を生み出す挑戦の機会でもある。この新たな挑戦をチャンスとして活かすためには、これまで日本が培ってきた伝統的能力だけに長けた人材では不十分であり、さまざまな分野における先端的知識と思考方法を使いこなして現象の中に隠れている中核課題を捉えて新たな課題を設定し、それを解決することのできる、高い総合能力を持った人材を新たに輩出することが必要である。そのような人材が育つ「場」を創り出すことこそが、高等教育機関にとって最重要課題の一つであり、東京大学はその中でも最良の「場」を提供する責任がある。
これまで日本企業は日本文化が育んだ洗練を受け継ぎ、豊かで感性の優れた消費者が多い市場に恵まれ、高い完成度と先端性を持った商品提供に強さを発揮し、日本経済の発展に貢献してきた。しかし、その日本経済も相対的に規模の優位さを失っていく中で、新たに「超高齢化社会の経営」や「低炭素社会の構築」をはじめとする、誰もがまだ明確な答えを持っていない世界の最先端課題が日本に最初に出現する状況に直面している。日本の組織は、今まで培ってきた実力に加えて新たな洞察力を発揮することが求められている。さまざまな最先端課題を世界に先駆けて捉えて的確に設定し、普遍性のある解決策を示すことが世界に対して果たすべき重要な責任になっている。このような課題設定と解決の能力を通じてのみ、多極構造に移行していく複数の文化圏のどこであっても影響力を発揮することができるのである。
90年代以降今日に至るまでの長い間、日本はグローバル化に対応する努力が不徹底であったことへの失望感の中で、バブル崩壊後の予想外に長引いた混乱から抜け出せず、再びかつての活力を取り戻すことができないまま過ごしてきた。また、経済的成功の結果もたらされた日本史上経験したことのない豊かな生活の中で、世界の変化に十分目を向けてその変化に積極的に参画することよりも、あえて新たなチャレンジを求めない風潮がある。かつてのような卓越を求めないままの自己満足と同時に自信喪失および逼塞感が交差する中で、時代に対する先見性と洞察を欠いた内向きの行動様式から抜けきれないまま時間が過ぎている。
日本人、および日本の組織はこの状況から抜け出し、多極化していく世界において普遍性と先端性を持った課題設定とその解決能力向上への高い志を持つべきである。世界に蔓延しているような狭量な覇権主義や国益主義に陥ることのない伸びやかな人格と多様な価値観に対する共感を持ち、鋭敏な感覚を持って本質を突いた課題を他に先駆けて提起・設定できる人材が必要である。単なる「問題の裏返し」の解決策ではなく、普遍性と具体性があり、しかも今まで誰も考えたことのない課題解決策を構築できる人材を時代は求めているのである。産業界、官公庁、その他の多くの組織からもそのような人材育成の要請は年々強くなってきている。
以上のような状況を踏まえ、社会からの要請に応えるために、東京大学は社会人向けの「東京大学エグゼクティブ・マネジメント・プログラム」(東大EMP)を開設した。このプログラムでは、東京大学が獲得してきたさまざまな分野における最先端の知識と思考方法を自らのものとし、さらに、深い智慧や幅広い教養に基づいた洞察力、そして、実際的で柔軟なコミュニケーション能力と実行力を併せ持つ、高い総合能力を備えた人材を育成することを目指している。
目的
東大EMPは、将来、多様な組織をリードしていく可能性のある40代の優秀な人材を主たる対象にして、これまで国内外のどこの教育機関も提供していない高いレベルの、全人格的な総合能力を形成させる「唯一無二」の「場」を提供することを目的とする。
特に、世界中のどのような場所において、どのような場面に直面しても臆することなく、確かな知識と多面的な思考に基づいてその場をリードし、相手の多様な文化的背景を十分理解した上で、納得性の高い議論を通じて課題を形成し、具体的な課題解決を構築、推進できる強靭さと迫力、そして、文化の違いを超えて人を惹き付ける人間的魅力のある人材の養成を図る。
文化とは、長い伝統と伝承に基づいた思想と生活の基盤である。同じ文化圏の中であっても、規範文化、認知文化、経験文化という違いも存在する。将来を担う人材は、これらの多様な文化のすべてに対して、一定以上の知識と共感を持つことが期待されている。それは、エリート層にありがちな「優しいが冷たい」性格ではなく、「厳しくても温かい」人格であり、「無限責任の無責任」になりがちな観念論に陥らない現実的な思考と、基軸のはっきりした行動規範を持った人格である。まさにそこからそれぞれの人間的魅力が醸し出されるはずである。
このような期待成果を達成するため、東大EMPでは、課題解決に導く幅広い教養と智慧、そして深く考える思考力の修養、特にサイエンスとダイナミック・システムのリテラシーを基本としている。さらにそれを超えて、課題設定能力の涵養という目的に沿った議論の展開を重視する。またそれぞれの最先端分野においての未解決課題や今後出現すべき課題、加えて、分野の縦割り状況にとらわれない新たな複合的課題等の議論が活発に行われる「場」を用意している。
本プログラムは、新しい視点と発想に基づいた課題の提起、講師と受講者という通常の関係を越えた自由な討議の「場」である。
「東大EMPメソッド」とは
「東大EMPメソッド」とは、すでに知識、識見、リーダーシップ等、長年の経験から一定の水準を超えている受講生を前提として、通常の教育・訓練プログラムでは扱い得ない育成メソッドを追求する。具体的に以下のようなことを指す。
- 東京大学が蓄積した幅広い知的資産を従来の学問の縦割り構造を越え、横の連携を促しながら最大限に活用し、提供する
- 講義の羅列と悪しき「教養主義」に陥ることを排し、現代の我々が直面する重要課題の構造化を試み、それに新たな視点を提供することを中心に講義群を組み立てる
- 結論をまとめるよりも議論の多面性と講師、受講生の両方が予想しなかったような新鮮な展開に注力するためにモデレータ(※)を活用する
- すでに出来上がった知識習得ではなく、その由来、背景や、そこから来る暗黙の境界条件の理解を通じてより高度な洞察力の獲得を最重視する
- 仮説、比喩、例示、象徴、公理、推論、証明、二項操作等を使いこなし、文化を越えて世界的に普遍性のあるロジックを組み立てる能力を獲得する
- 「一次情報」、「二次情報」の峻別とそれぞれの限界を理解した活用の智慧等、現在の情報過剰環境における情報処理能力の向上を目指す
- 「百聞ではなく、千聞、万聞は一見にしかず」であり、東大のすべてのキャンパス、および諸研究施設での直接的な現場体験や東大を訪問する世界の重要人物との接点をできる限り提供する
- すでに分かっている基礎的知識は前もって提示する「読むべき資料」で獲得し、講義は常に最先端のまだ解決していない課題を中心に議論を進める
- 講師の公式見解ではない「個人的意見、思想」を自由に開陳し議論できるような雰囲気を持った、他には存在しないユニークな「場」を作る
- 受講生間のグループ・ネットワークの活用により受講生間の議論を通じて、金曜日、土曜日の講義日以外でも思考を常に持続させ、深化、発酵させていく
- 社会経験豊富な受講生間の相互啓発を促し、各自が選択した課題に対する共同作業を通じて、お互いをよく知り、将来の忌憚ない議論のできる仲間を形成していく
期待される成果
東大EMPが提供する多面的で刺激的な「場」において獲得した最先端の知と思考の規律を武器に、それぞれの受講生は何を知り、何を知らなかったかの全体的な自覚・認識を通じて新たな好奇心が湧くとともに、自分が潜在的に持っている優れた資質に対する認識が深まり、それを一層開花させるきっかけができる。具体的には、以下のような成果が期待される。
- 現代社会において何が重要かつ最も難しい課題なのか、解決策はありうるのかというテーマに関し全体観を持つことができる
- 先端課題に対するより確かな理解をもとに、知ったかぶりではなく借りものでもない自分の意見が言える
- 課題を発見し、定義する能力とは何かに対する理解が増し、その能力向上のための自己訓練の仕方が具体的につかめる
- 世界のどこにおかれても受け身で引っ込み思案になったり、自分を失ったりすることなく自分の強さに基づいた発想と行動ができる知恵が身につく
- 多面的なコミュニケーション能力向上の必要性への認識が増し、人間関係の機微に関心を持ち、場面、場面に適した、いい意味での自己演出に気を配るようになる
- 知的な最先端にさらされ、もまれることを通じて、自分なりの自己主張をし、どんなテーマに直面しても驚かなくなったという実感が湧く
- 話が通じ合い、構えることなく付き合える優秀な仲間が分野を越えて新しく広がるだけでなく、毎年その仲間が増えていく
- 最新の分野の情報や、専門外で分からないことなどをすぐに東大の講師陣をはじめとした最良の専門家に聞ける東大EMPネットワークが活用できる
- 修了後も、モデレータとしてEMPの「場」に参加し、更に活用することによって、受講時とは異なる立場から思考を深める機会を得ることができる
東大EMPコミュニティ
「東大EMPコミュニティ」は、本プログラムの大きな特徴である。東京大学は、プログラム修了後も貴重な経験を継続して共有できるよう多様な支援を行う。東大EMP修了生は同窓会組織として「EMP倶楽部」を形成し、Post-EMP活動展開の試みとして各種イベントや研究会・講演会の開催、同窓会会報『EMPower』の発行などを自主的に企画・実施している。また、修了生はモデレータとして修了後もプログラムに参画することにより、変化を続けるEMPの展開に関わることができる。